ドロップス



 神は自ら人と共にいて、その神となり、
 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
 もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。

 (ヨハネ黙示録 第21章)



 昨日の夜から降り出した雨の所為で、盛りを過ぎていた桜の花は殆ど散ってしまっていた。
「一日早く帰ってこられたら、花見も出来たのにな」
 雨に濡れた石畳を白く染め替えるように一面に敷き詰められた花びらを名残惜しげに眺めると、山本は傘の中から花よりも葉の色が目立つようになった桜並木を振り仰いだ。
 隣を歩く獄寺も同じように傘を傾けて見上げるが、枝先から零れた水滴が目元に落ちて慌てて傘を差し直した。
 音もなく降り続ける雨が、傘の下からはみ出した獄寺の肩先をわずかに湿らせている。それに気づいた山本が、ジャケットの肩に手を載せて苦笑いを浮かべた。
「やっぱ、その傘じゃちっちゃかったな…悪いな」
「大した雨じゃねえし、ないよりマシだろ。お前がこっち差してる方が濡れるしな」
 家を出る時、二本の傘のどちらを使うかで揉めた事を思い出して、獄寺は声を殺して笑った。

 一本は、山本が小学生の頃使っていたという新緑を思わせる鮮やかなグリーンの傘。
 もう一本は、文字通り翼を広げたこうもりのような大きな真っ黒い傘。
 懐かしいなあ、と笑いながら小さな傘を頭上に広げた山本の姿を見て、獄寺は壁を叩く勢いで笑い転げて切れぎれの声で呟いた。

「『トトロみてえ』はないだろ…」
 肩を震わせる獄寺を見てぼやくその手には、剛愛用の黒い傘が握られている。二人で入れない大きさではなかったが、グリーンの傘を妙に気に入ったらしい獄寺に相合傘を拒まれてしまい、2人別々の傘を差して墓地までの道を歩いていた。


 10年前から戻ってきた獄寺は、山本の異変に気づくとしがみつく体を無理矢理引き剥がし、俯く頬を両手で挟みこんで目を合わせた。
「何があった?…まさか、10代目がっ!?」
「…ツナなら、先刻戻ってきた。もう、大丈夫…だ」
 震える唇で何とかそれだけ伝えると、それを聞いた獄寺は安堵したようにひとつ息を吐き出したが、更に視線を険しくして問いを重ねた。
「他に、は?」
 獄寺の声も掌も震えていた。それに答えるべく口を開くが、喉の奥が詰まったように声が出せない。
「答えろ!武!」
 声を荒げる獄寺の顔がとろりと歪む…瞬きひとつで頬を滑り落ちた雫が獄寺の指先を濡らした。
「…おやじ、が…」
 擦れた声に、獄寺の目が大きく見開かれる。翠の双眸は瞬く間に潤み、決壊した。
「う…そだ…んな訳…」
 青ざめた頬を幾筋も流れる涙に、山本の為に泣いてくれた14歳の獄寺隼人を思い出した。
 (俺にまで平気な顔をするな!!)
 細い腕で精一杯抱きしめてくれた彼は、今頃無事に14歳の山本武の元へ辿り着いただろうか…。
 再び縋り付くように抱き込んだ腕の中で、全身を震わせて獄寺が慟哭した。


「ほら、傘」
「ああ…サンキュ」
 墓碑の前で合掌を解いて立ち上がった獄寺の目が赤くなっているのを見て、差しかけていた傘を手渡す瞬間に引き寄せて目尻に唇を落とした。
「てめえっ!剛の前で何しやがるっ!」
「んー?親父に『オレ達は相変わらずラブラブですから安心しろ』って報告」
「ばっ…ふっざけんなっ!」
 真っ赤な顔で傘を奪い返すと、獄寺は振り返って雨に濡れた墓碑に向かって忌々しげに言い放った。
「おい、剛。てめえこの馬鹿息子にどーゆー教育しやがったんだ?」

 騒乱の痛手は大きく、残された者達は奔走する日々が続いた…おかげで悲嘆に暮れる暇もなかったのは有難かった。
 自分は父親を救う事が出来なかったけど…10年前の世界に帰った獄寺達には、違う未来が待っているかもしれない。
 父親を「死なせない」と約束してくれた獄寺や10年前の山本武と共に、父親が幸せでいてくれるのならそれで構わない、と思った。

「…なあ、獄寺。親父と何話してたんだ?」
 傘が邪魔で、獄寺の前に回りこんで顔を覗き込みながら、やけに長く手を合わせてたけど?と問いかけると、獄寺は山本をちらりと見上げ、顔を隠すように傘を傾けるとぽつりと呟いた。
「…約束、ちゃんと守ってる、ってさ」


 山本が不在の隙に剛が押入れから引っ張り出してきたのは、山本が小さい頃のアルバムだった。
「すげー量だな…さっすが親馬鹿だなー」
 ちゃぶ台の上に積み上げられたアルバムに獄寺が呆れたような声を上げると、
「おうよ!あいつが帰ってくる前に見なきゃなんねーから、急いでくれよ」
 慌てて一番上に積み上げられた1冊を手に取り表紙をめくると、生まれたばかりらしい赤ん坊の写真に思わず笑みがこぼれた。生まれた日から節目や行事のたびに、そして普段の何気ない表情も交えて、1歳、2歳、3歳…と丁寧に整理されたアルバムに見入っていた獄寺の前にお茶の入った湯のみが置かれると、獄寺はその中の一枚を指差して問いかけた。
「おい、剛…こいつ泣き虫だったのか?」
 一人で写っていても家族や友達らしき人間と写っていても。果ては幼稚園の集合写真に至るまで、獄寺が見知った笑顔は殆ど見られず、代わりに目を真っ赤に腫らした写真やら顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっている写真ばかりだった。
「だろ?武の奴、『みっともねーから絶対獄寺には見せるなっ!』って、慌てて隠してたんだぜ」
 こいつを見せたって事は、あいつには内緒だぜ?と下手なウィンクで笑う剛に、獄寺もにやりと笑って頷いた。
「あの頃はなあ、試合に負けたっつっちゃー泣き、近所の犬が死んだっつっちゃー泣き、幼稚園の先生が結婚するから辞めるっつっちゃー泣き…毎日みたいに泣いてたぜ」
「想像つかねえな…」
 内心、あいつを嘲笑う良いネタが出来たな、とほくそ笑む獄寺に、傍らに座り込んだ剛がアルバムを開きながらぽつぽつと言葉を繋いだ。
「いつだったかな。あいつに言ってやったんだよ…『人間、生きてる間に流す涙の量は決まってるから、今から泣いてばっかりいると本当に泣きたい時に泣けなくなるもんだ。涙はちゃーんと大事な人の為に取っとけ』ってな」
 そう言いながら開いたページには、お気に入りらしい緑の傘を差して嬉しそうに笑い、飛び跳ねる幼い山本の写真が貼り付けてあった。その笑顔を指先でなぞり、満足げに笑っていた剛が獄寺の名を呼んだ。
「だからよ…あいつが下手な事で泣かないよう、ちゃんと見張っててくれな」
 顔を上げた獄寺は、その言葉に一瞬瞠目するも、いつもの皮肉げな笑みを口元に刻んで倣岸に言い放った。
「…剛の頼みじゃあ、しょーがねえよなあ」
「頼んだぜ。男の約束な!」


「え?約束って…またオレに内緒で2人で何かしてたのかよ!」
 ズルい!と叫ぶ山本の抗議の声を聞きながら緑の傘を閉じて雫をひと払いすると、再び墓碑に向き直って山本に聞かせるつもりのない言葉を小声で呟いた。
「…残りの涙は、オレの分だからな」
 まあ、そう簡単に使わせねーから、安心しろよ。
「獄寺?どーした?」
 伺うような声に振り返って、傘の柄を握る山本の手に掌を重ねて黒い傘の下に潜り込むと、わずかに伸び上がって唇を寄せる。軽く触れ合わせただけで身を離そうとしたが、逆にいつの間にか腰に回されていた腕に引き寄せられた。
「…親父の前だけど?」
「傘に隠れてっから大丈夫だろ」
 顔を見合わせて笑いながら再び唇を重ねると、風に揺れる枝葉から落ちた雨粒が傘に弾けて、2人の頭上で不規則な旋律を奏でた。






「レクイエム」を書いてもまだぐるぐるしてて、つねみさんの「涙」を読んだら余計に哀しくなっちゃって(泣)自分の頭を整理させるべく書きました…彼らの未来はきっと変えられる。/わんこ






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