願い



 この部屋から一歩でも出てしまえば、そこは戦場だった。

 日々悪化していく戦況に怯えうろたえる者達を前に、どんな状況においても揺るがず真っ直ぐに前だけを見据える双眸は常に燃え上がる炎を思わせる光を放っていたから、誰もが彼を信じ、己の、ファミリーの未来をその決して頑強とは言えない背中に託した。
 そして彼は、皆の願いを受け止め飲み込み、どんな時でも「大丈夫だよ」と微笑んでみせた。


――これも適性って言うのかな?
 己の置かれている状況に自分でも驚く程馴染んでしまっていたから、彼は貼り付いてしまった笑みの形を崩さないまま小さくため息をついた。
 かちゃり…ばたん。
 静かに開いた自室のドアがゆっくり閉ざされると、遮光カーテンで覆われた部屋の中は己の手足も不明瞭になる程真っ暗だった。
 重厚な扉に背中を預けたままずるずるとしゃがみ込むと、立てた膝に額を押し付けて深く深く息を吐き出した。

「今日も随分と死んだようですね…」
 ふいに聞こえた声に顔を上げないまま、きつく目を閉じる…どうせ姿が見えないのなら、声だけ聞いていた方がマシだった。
「貴方を庇って命を落とした者がいたようですが…何て名前でしたかねえ」
 覚えていますか?と問われて脳裏に浮かぶのは、血を流しながらも自分を庇い敵に対峙する背中だけだったから、それが誰だったか、名前はおろか顔すらも思い出せなかった。
 無言の彼を労わるようにその声音は柔らかさを増し、俯く耳元に囁きかけた。
「じゃあ、質問を変えましょう…今日一日、その手で何人、ヒトを殺しましたか?」
――そんなの、もっと覚えていない。
 言い返す気力すらなく、声にならない呟きは胸の奥を滑り落ちるだけだった。


 この部屋を一歩でも出てしまえば、「沢田綱吉」は「ボンゴレ10代目」だった。

 昼夜を問わず常に誰かが付き従い、敵の強襲やファミリーの被害状況が逐一伝えられ、その都度指示を仰がれ判断を強いられていたが、最低限の睡眠だけは確保出来るようにと配慮されていたから、この部屋にいる僅かな間だけは誰からも何の連絡もなく悲鳴も怒号も銃声も届かず、彼はひとりきりでいられた…筈、だった。
 音も光も遮られた部屋の中、ひとりベッドの上で丸くなって横たわる彼の前に、ゆらり、とそこに居る筈のない影が現れるまでは。


 さらり、と髪を撫でる指の感触に、彼は唇を噛み締め、床についた掌をぎゅっと握り締めた。
――駄目、だ。
 顔を上げてしまったら、腕を伸ばしてしまったら、
――こいつは、ここにはいないんだ…。
 きっと、縋りついてしまう…例え、それが幻覚だと判っていても。

 酷使され、取り繕う事さえも出来なくなってしまったココロにするりと忍び込んだのは、誰が生んだ「幻覚」だったのか…。


「なあ……骸」
 頑なな姿勢を崩さないまま、吐息だけで囁いた声が闇に落ちた。
「『大丈夫だ』って…言ってくれないか」
 正しくなくても、間違ってても…嘘でも、良いから。

「それが、貴方の願いなら…」
 髪に触れていた唇から漏れた呼気が、皮膚をくすぐる…ただそれだけの感触にひたひたと満たされる自分を愚かだと思ったが、この部屋にいる間だけはそれも許されるだろうから。

「      」

 了承の言葉に続いて落とされた甘い囁きは、確かな質感を持って彼の内側を切り裂いた。
 腕で囲ったままの顔をくしゃりと歪めると、溢れた雫は頬を濡らす事もなく、ぽたり、と床に吸い込まれた。
「非道い、な…」
「貴方が言ったんでしょう?…嘘でも良い、と」

 ああそうだ……誰か、嘘だと言って欲しかった。
 この世界も、血に塗れた己の手も、何もかも……出来る事なら、この手で壊してしまいたかった。両手に灯した炎で、全てを薙ぎ払ってしまいたかった。

 ドアの前で膝を抱えたままごろりと横たわると、硬い床の上で今夜も訪れないであろう眠りを待って濡れた瞳を閉じた。






リングを壊した「10年後のツナ」の本音を聞いてみたいです…。/わんこ






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