アンサー



「ほら、山本…早くしないと終わらないよ」
「んー」
 窓際の机にうつ伏せたまま唸るオレの頭をぽんぽんと叩くツナの手はオレよりちっこい筈なのに、こうして目を閉じていると不思議と親父の掌を思い出させた。
 耳に入ってくるのは、二人しかいない放課後の教室に響くシャーペンの音に時々ツナの唸り声。開け放たれた窓で揺れるカーテンの向こうからは、グラウンドを走り回ってる野球部の奴らの歓声…いつもなら居ても立ってもいられなくなる筈なのに、何故か耳に蓋がしてあるみたいに遠くに聞こえた。


 昼休み、数学の宿題がどうしても解けず拝み倒すオレを哀れんだツナの「獄寺君、教えてあげなよ」のひと言に折れた獄寺は、オレの手からシャーペンを奪い取ると、覚えている公式を手当たり次第にひっぱり出しては解いてる途中で挫折しまくってこんがらがった答案用紙の片隅に、僅かな淀みもなくひとつの公式とそこから導き出される答えを書き殴って呆れたように言い放った。
「これっくらいも判んねーのかよ、野球バカ」

 投げつけられたいつもの罵声よりも、シャーペンを返された時、ほんの一瞬、オレと獄寺の指の関節がかつん、とぶつかった、その感触が音もなく心臓のど真ん中に落ちてきた。


 折角獄寺が解いてくれた問題をそのまま提出してしまったから筆跡ですぐにバレてしまい(当然ながら獄寺には激怒され、流石のツナにも呆れられた…)、結局、自分の出来る範囲で宿題を提出して潔く補習に甘んじたツナと二人、居残りになってしまった…まあ、いつもの事だけど。
「なあ、ツナ…獄寺、先に帰ってんの?」
 いつもならツナのいるところに獄寺あり、だが、そこを見越した担任に獄寺が手を貸したら補習のやり直しだと釘を刺されてしまい、それでもしばらくは廊下をうろうろしていたのに、何事かを耳打ちしたツナに大きく頷くと名残惜しそうにしながらもおとなしく立ち去ったのだ。
「ああ…うん。ちょっと、ね…」
 顔を上げていれば、歯切れの悪いツナの声音も何かを誤魔化すような曖昧な表情にも気づいたのかもしれないけど、相変わらず課題の上に顔を伏せたままのオレが気づく筈もなく、「ふうん…」と気のない返事とため息をひとつ零す頭上でツナの苦笑いが聞こえた。
「やーまーもとー。オレ、もう終わっちゃうよ?」
「うっそ!マジで?」
 困ったようなツナの声に慌てて身を起こすと、ぴらっと目の前にびっしりと書き込まれた答案用紙が広げられた。消したり書いたりの跡が激しくて、長々と書き連ねられた公式の先にちんまりと書かれた答えはどこか自信なさげだったけど、獄寺が教えてくれた問題もきちんと解かれていて、百点満点はともかく努力賞は充分貰えそうな出来だった。
「あー、ヤベえ…コレ、終わらねーと帰れないんだよな?」
 今更ながら焦ってみるが、ツナとは違う課題を与えられたオレの答案用紙は依然真っ白なままだ。はなっからなかったやる気がますます失せてきて、再び机の上に体を預けると、立ち上がったツナが身を屈めてオレの顔を覗き込んできた。
「山本、本当に大丈夫?…あのさ、オレ、先に帰っても良いかな?」
 顔を横に向けて目を合わせると、ツナはどことなくそわそわしながらも気遣わしげな目を細めて笑った…何か予定でもあったんだろうか?
「ああ、良いぜ。オレもそろそろ真面目にするか…」
 体を起こして両腕をうんと伸ばすと、既に帰り支度を始めたツナがオレの答案用紙を見ながら大きな目をぱちりと瞬かせた。
「…多分、三十分はかかるよね?」
「ああ、そうだな…あと一時間粘って無理なら諦めるかな」
 四月に入ってどんどん日が長くなって部活の終了時間も延長になっていたから、教室を追い出されるまでまだ時間はある筈だ。
「そっか…じゃあ、先に帰るから、山本はゆっくりしててよ」
「…こんなんでゆっくりしたくないけどなあ」
 がっくりと肩を落としてぼやくオレに、「ほら、頑張れば良い事あるかもしれないし?」と励ましなのか何なのか、意味深な言葉をひとつ残してツナは教室から出て行った。


 一人教室に残されて漸く課題に取り掛かってみたが、最初の問題から途中で放り出して、違う問題に手を出してはまた判らなくなり放り出して…を繰り返した挙句、結局中途半端に手をつけただけの、何ひとつ答えの出ていない答案用紙の上で頭を抱えてため息をつくだけだった。
「わっかんねえ…」
 野球のスコアにも寿司屋の勘定にも、連立方程式も三角比も必要ない。こんなの覚えなくたって生きてくのに困らねーのに…。
「…なんでこんな事で悩まなきゃなんねーのかなあ」
 確かに元々勉強はあまり好きではないから、出来ればやりたくないしなかなか集中も出来ないけれど…何故か今日はいつも以上にやる気も調子も出なかった(言い訳とかじゃなくて!)問題を解こうとしても頭がぐるぐるして考えがまとまらないし、集中しようとしても胸の奥がざわざわして落ち着かないのだ。
こつこつ、こつ
 気づいたら、指の関節を机にぶつけて音を刻んでいた…ふと、昼間一瞬だけ触れた獄寺の指の感触を思い出してしまい、体の内側を撫でられるみたいに、ぶわり、と胸の奥で風が巻き上がった。
――なんだかなあ…。
 あれからずっとこの調子なのだ。あの瞬間に落ちてきた何か、が体の真ん中に風穴でも開けたんじゃないかと思う程、訳の判らない何かが体中を駆け巡ってはざわざわぐるぐる暴れていて、何も考えられない、落ち着かない。
 ただ一瞬掠めただけで、痛みも熱も何も感じる間もなかったのだ。怒った獄寺に背中をど突かれる事も頭を殴られる事もしょっちゅうだったし、嫌がる獄寺の腕を取って引っ張っていったり暴れようとするのを羽交い絞めして宥める事も珍しくない。それぐらいの事、別に何て事なかった筈なのに。
――もしかして、アレか。新手の花火か何か仕込まれたとか?
 カッとなった獄寺がよく取り出す(そしていつもツナに止められる)花火。勉強を教えるフリして、瞬きひとつの隙にオレに攻撃を仕掛けてきたんだろーか。流石、ツナの右腕を自称するだけの事はある。恐るべし、獄寺…って。
「ナニ、あほな事考えてんだよ…」
「ほんとーに、なっ」
がつん!
 うつ伏せた姿勢のまま机に押さえ込まれて、派手な音を立ててぶつかった額を押さえながら顔を上げると、いつの間にか薄暗くなっていた教室の中、オレの傍らにぼんやりと浮かび上がる人影…。
「ごくでら…?」
 次第に目が慣れて、腕を組んでこちらを見下ろす獄寺の表情もはっきり見えてきた。いつもみたく不機嫌さを隠そうとしない眉間の皺と引き結ばれた薄い唇に、ふにゃりと胸の奥がほどけて、ざわざわの代わりにじんわりと温かいものが沁み込んでくるような感じがした…何なんだろうな、コレ。悪い気分は、しないけど。
「このバカ…10代目の手を煩わせるんじゃねーよ」
 隣の席の椅子を引き寄せると、獄寺はどかりと座り込んで「見せてみろ」と答案用紙と机の上に転がっていたシャーペンを奪い取った。
「…10代目が、お前に手を貸してやれって」
「ツナが?」
「とっとと終わらせて、10代目のお宅に行くぞ…オレがこっちに答案書くから、今度はちゃんと自分で書き写せよ」
「ツナんち、って…」
遊びに行く約束でもしてたっけ?と問い返す前に、暗くて見えづらいのかいつもより前屈みに問題を解き始めた獄寺が顔を上げると、「今度はバレねーよーに、テキトーに間違えててやるからよ」とにやりと笑った。


「全く…どれも単純なひっかけ問題じゃねーか。ほら、これもこれも…代入する数を間違えてんだよ」
「あ、ほんとだ…」
「ほんどだ、じゃねえよっ。お前もさっさと書き写せよ!」
 担任に見つかったらどーすんだよ!と歯を向く獄寺にへらりと笑ってみせてペンケースからシャーペンを取り出すが…獄寺曰く「オレがやらかしそうな間違い」を随所に散りばめた(そのくせ最終的な答えは合ってるらしい…って、どんな力技だ?)答案をこの薄暗い中で書き写すには、獄寺の手元に顔を近づけて覗き込まないといけないんじゃなかろーか。
――オレ、どうしてたっけ?
 ツナと二人、こうやって宿題を見てもらう事も珍しくない。いつも小さな机を三人で囲んで、頭を突き合せて獄寺の説明を聞いているのに…またぐるぐるしてきた頭をとんとんと手首で叩くと、獄寺がは、と小さく息を吐き出した。
「あほのくせに、めんどくせー解き方してんな…下手の考え休むに似たり、っつーだろ?」
「なんだ?ソレ」
シャーペンの先でかつかつとオレの間違えた答案を叩く獄寺に問い返すと、顔を上げないまま心底呆れたような声で呟いた。
「おめー、本当に日本人かよ…バカは悩むだけ無駄だから、余計な事は考えないで行動しろって意味だ」

 獄寺の言葉に、つい先刻までぐるぐると渦巻いていた何かが一気に吹き飛んだ。

「……それで、本当に良いのか?」
「いーんじゃねーの?」
「でもさ…獄寺、困らない?」
「……なんでオレが困るんだよ」
「いや…何となく?」
 意味もなくそう呟きながらも自分の言葉に首を傾げるオレに、獄寺はしかめっ面を向けて口早に吐き捨てた。
「アホか……てめーに面倒かけられたりムカついたりうざってーのはいつもの事だから、今更下手な気遣いも何も要らねーんだよ」
「そっか…さんきゅーな、獄寺」
 へへ、と笑いながらでたらめな答案用紙に消しゴムをかけると、最後の問題を解いている獄寺と肩先がぶつかった。相変わらず触れるたびに体の中を走り抜ける何か、の正体は棚に上げて、思いのままに獄寺の肩に体重を預けた。
「寄るな、うぜえ」
「さっさと終わらせて、ツナんちに行くんだろ?こうしないと答え見えねーもん」
 獄寺の手元を覗き込むように身を乗り出すと、押し返そうとしていた獄寺の腕の力が弱まり、代わりに紙の上を走っていたシャーペンの先が目の前に突き出された。
「五分で終わらせろ!」
「はいはーい」
 仰け反りながら軽く応えてシャーペンを握り締めると、10代目が折角準備しているんだ、とか、一応主役だからな、とかぶつぶつ呟く声を聞き流しつつ、紙の上を忙しなく走る獄寺の手にこっそりと自分の手をぶつけた。






た、たまには天然?な山獄で…(汗)取り敢えず、もっさんはぴば!/わんこ






MENU