新しい日常



 専用のカードキーがないと入れないフロアにエレベーターが到着すると、買い物袋を持ち直して降りた。値段もさることながら、セキュリティの面でも優れているこのホテルは、またキッチンがついている点も山本のお気に入りだ。一人暮らし用ほどのサイズでしかない冷蔵庫は、滞在中はいつもほぼ満杯だった。
 自分が泊まっている部屋の前でもう一度辺りを見回すと、手にしたカードをドアに差し込んだ。
「ただいま」
 ドアを開けてすぐに中に声をかける。部屋の灯りが点いているというのがこんなにうれしいことだとは、彼が来るまで知らなかった。部屋に入ると、大きなソファの上にちょこんと座っている。
「寂しかったろ、隼人」
 見上げてくる翠色の瞳に笑いかけ、山本は額を合わせた。
「もうちょっと待っててな。今、ミルクを温めてやるから」
 隼人は、瞬きを一つするとかすかに頷いた。

 山本はこの街へは仕事で訪れていた。仕事といっても、普通の会社員ではない。友人がボスを勤めている組織に所属しているマフィアの一員だった。「友人がボス」というのはおかしな話だが、実際に「友人」になったことが先だったのだから仕方がない。彼の家庭教師も笑って許しているのだから、山本には考えを改める気はなかった。
そんな「仕事」の一環で訪れたこの街で、偶然に隼人を知った。最初は本物の人形だと思っていたのだが、本当は「プランツ・ドール」と呼ばれる「生きている人形」だったのだ。見かける事すら滅多にないプランツ・ドールに会えた事は確かに凄いことだと思うが、山本にとっては隼人に出会えた事が何よりも幸運だったと思っている。
着ていたジャケットを隼人の隣に置くと、ダイニングテーブルを周ってキッチンへと入る。ミルクパンをヒーターに置くと、冷蔵庫の中からミルクを出した。熱くなり過ぎないように慎重に温める。いくつか使ってみた中で、彼が一番気に入ったのは、適度な厚さの白いシンプルなマグカップだ。それに温めたミルクを入れると、ダイニングテーブルに置いた。ソファの上でじっと自分を見詰めている彼を抱き上げて、その前に座らせてやる。隼人が手を出そうとするのを、やんわりと止めた。
「まだちょっと熱いからな」
 連れてきたばかりの三日前、熱くなったマグカップに唇をつけたとたんに顔を顰めていた。
「隼人は猫舌だからな」
 持ち上げて隼人の顔の前でカップを吹いて冷ましてやる。その間も待ちきれないのか、隼人は小さい手を山本の手にかけていた。
「ほら、もう大丈夫だろ」
 山本は隼人の両手にマグカップを持たせると、両脇から支えるようにして飲ませてやる。最初はマグカップ1杯飲むのも時間がかかっていたが、だんだん早くなっているようだ。
 あまり大人しい隼人を心配した山本は、昨日も彼が売られていた店に立ち寄っていた。彼がいた店の主人――シャマルは「主人が手をかけてやればやるほど、こいつは変わってくるからな。結構長い間ここにいたから大人しいけど、お前さん次第で走り回るようになるさ」と笑っていた。
 少しずつだが、自分で動いたり意思を示したりすることが増えてきたようだ。夢中でミルクを飲む隼人を眺めながら、山本はにっこりと笑った。
 全部飲み干すと、隼人は満足したようにマグカップを山本の手に押しやる。
「美味しかった?」
 山本の言葉に、隼人は彼を見上げて目を細めた。
「…笑った、のか?」
 吃驚している山本を見上げて、面白そうに笑っている。
 山本のところに来てから、初めて見せた笑顔だった。

 山本も食事を済ませ、風呂も一緒に入る。専用のシャンプーや石鹸じゃないと駄目なドールもいるようだが、隼人は山本と同じものが気に入ったようだった。
 バスタオルで包んで丁寧に拭いてやり、別なタオルを頭に被せる。
「ほら、拭いてやるから目を閉じて」
 言われた通りにぎゅっと目を閉じる隼人の頭をぽんぽんと撫でてやってからゆっくりと水気をとってやると、ドライヤーまでしっかりとかけてやった。
「はい終わり」
 山本の声に目を開けた隼人は、傍に置いてあるパジャマに手を伸ばす。その様子に山本は苦笑を浮かべた。
「はいはい。好きな方を着せてやるから、慌てなくていいよ。」
 そして手にしたのは、大きな大人用のパジャマのシャツだった。連れて来た初日に着せたのを、何故か気に入ったらしく、翌日に子供用のパジャマを買ってきても嫌がって絶対に着ようとしなかったのだ。
 頭から被せてやって、前のボタンを留める。袖はどうしたって長すぎるから、手首のあたりまで何度か折り返した。大きな洗面台の端に座らせてやると、シャツの裾からは小さな踝が見えた。自分は適当に身体を拭くと、余った形になっているズボンだけを着る。タオルで手早く髪の毛を拭いた後ドライヤーで乾かした。
 寝室へ運ぶために隼人を抱き上げる。小さな手がすがるように山本の首に回された――その感触がとても心地良い。ゆっくりとベッドに下ろしてやると、隼人は山本の指を掴んで少し引っ張った。
「ああ、一緒に寝ような。」
 照明を絞ると、シーツを捲って隼人を寝かせる。それを懐に抱き込むようにして、山本もベッドに身体を横たえた。
「…隼人」
 山本が自分を呼ぶ声に、隼人は顔を上げた。
「明日、イタリアへ帰ろうと思っているんだ」
 隼人の瞳が不安げに揺れる。小さな手を山本に伸ばしてしがみついた。
「もちろん、隼人も一緒に帰ろう」
 山本の言葉に、隼人は顔を上げた。
「いいよな?」
 大きく頷いてくれた隼人を、山本はもう一度抱きしめた。






武さんが微妙に危ない人に見える(爆。/つねみ






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