Painless



 いつものようにお茶を入れていた時の事だった。
 ちょっとした不注意で手の甲に作ってしまった傷を見て、自分が傷ついたような顔をしていたのはマスターの方だった。
「大丈夫ですよ。痛くないんですから」
 傷もシャマルのところに行けばすぐ治せますから、と安心させる為に告げた筈なのに…何故かマスターの顔は晴れなかった。



 翌日、骸が傷の手当ての為にシャマルの店へ行きたいと告げると、前日からどこか暗い顔をしているツナが「オレも行く!」と言い放った。
 骸に反対する理由もなく2人でシャマルの店を訪れたが、生憎店主は不在のようだった。
「仕方ありませんね…マスターはここで待っててもらえませんか?」
 既に狭い店内のあちこちに置かれている調度品や美しい人形に気を取られていたツナは、
「あっ…うん、判った」
 骸の声に慌てて人形に差し出しかけていた手を引っ込めたが、それでもその目が興味深そうにきょろきょろと忙しなく動いているのを見て、骸はツナの頬に掌を当てて目を合わせた。
「この子達に触れても大丈夫ですよ…ただし、大切に扱って下さいね」
 どうやら貴方は拒まれていないようだ、と呟く声にツナは首を傾げたが、骸はそれ以上は何も言わずに店の奥へと姿を消した。


 ツナがこの店にやってきて1番に目を引いたのは、細い路地に面した窓際に置かれたアンティークチェアに座らされている少女の姿をした人形だった。恐らく、これもプランツ・ドールなのだろう…骸と同じく。

 クリスマスの朝、温かい羽根布団の中でまどろむツナの目に、黒いものが映った。
 (何、コレ…)
 起き抜けで反応が鈍いまま、緩慢な動作で胸元に寄り添うように横たわるソレに触れる…突然動いたソレはわずかに色味の違う双眸で真っ直ぐにツナを見つめて、白皙に穏やかな笑みを浮かべた。
「おはようございます、マスター」
 …数刻の沈黙の後、ツナの部屋に子供特有の甲高い叫び声が響き渡った。

 初めて逢った時、骸はツナを見て微笑んだ。
 あれから数ヶ月、骸はいつもツナの傍にいた。朝起きて一番に耳にするのはあの日のように骸の「おはようございます、マスター」だし、食事の時は一緒にテーブルにつくし(ただし、骸はグラス一杯のワインを飲むだけだが)、家庭教師の手厳しい指導中、助けを求めるように視線を彷徨わせると必ず安心させるように微笑んで、たまには「そろそろお茶にしましょうか?」と助け舟を出してくれるのだ。そして、ベッドに入って部屋の灯りが落とされる時に囁かれる「おやすみなさい、マスター」が眠りに就く合図だった。

 思えば、ずっと一緒にいるのに骸の事は知らない事が多い…「プランツ・ドール」に関する注意点、なら初めて逢った日に骸が、そしてそれから一週間後「ツナー!お年玉だぞーっ!」とお正月に合わせて帰ってきたらしい家光が教えてくれた。
 変わった食事、いつまでも美しいままの相貌…そして、痛みを知らない身体。
確かに骸は「痛くない」と言ったのに、何故かツナは「痛い」と感じた。そして、骸の事が判らない、と思った自分がもどかしかった。
(骸は、いつもオレの事を判ってくれているのに…)
骸が自分達とは「違う」ものだと感じた事などなかったのに…すぐ傍にいる筈の存在を見失ってしまいそうで怖くなった。


「君は、骸みたいに笑ってくれないの?」
 俯きがちに座る人形と視線を合わせようと、カーペットに膝をついて首を傾げる。長い睫に縁取られた硝子球のような瞳に、光が差し込んだかに見えたその時、
「むやみにナンパするのは感心しねえなあ」
 鷹揚に呟く声にツナが顔を上げると、ドアに凭れかかる白衣を着た男がにやりと笑った。
「ようこそ、ボンゴレの坊主」
「あ、あなたは…」
「一応、ここの店主だ。骸も一緒か?」
 奥に続く出入り口に視線を送る男に、
「あ、あの、昨日怪我をしてしまって…その、ドクターがすぐ治してくれるって」
 恐る恐る呟くと、男は顔を歪めて苦笑した。
「シャマル、でいい。メンテナンスならあいつは得意だから、ほっといても大丈夫だろ」
 座れ、と無言で合図してソファに腰掛けるシャマルに向かい合うように座ると、ツナは膝に置いた手を握り締めて、意を決したように口を開いた。
「あの、ド…しゃ、シャマル?」
「おう、何だ?」
 どこか思いつめたような、縋るようなツナの目に内心苦笑しつつ促すと、ツナは言葉を探すように視線を彷徨わせ、しばらくの逡巡の後、ようやく言葉を繋いだ。
「骸…本当に怪我しても痛くないの?」
「ああ、あいつに痛覚はねえからな。ま、その分他の感覚は強化されてる筈だ。怪我も表皮を切ったぐらいなら、溶着液みてーな薬があるんだがそれ塗ってりゃすぐ塞がる」
 その目的は敢えて口にせずに、だから大丈夫だと返したが、それでも納得しなかったらしいツナは身を乗り出してシャマルを睨みつけた。
「それでも、オレは嫌だ。痛くなくても、すぐ治っても、骸に怪我なんかしてほしくない」

 目元を赤く染めて涙を堪えるように口をきつく結んだツナを見て、シャマルは皮肉げな表情を消して目を見張った。
 (骸…これがお前の選んだマスターか)
 主のボディガードとして時に兵器となるべく作られた骸は、護るべき主を失い、生みの親である筈の人形職人にすら見放されてシャマルの元へとやって来た。
 それから数年、シャマルの店から一歩も外へ出る事なく暮らした骸は、元々主に仕える事を主として作られた所為かドール達の世話をよく焼き、店にやってくるシャマルの友人や客を丁重にもてなした。人当たり良く誰にでも如才なく接していたが、一度たりとも新たな主を求めた事などなかったのだ。
 (俺は、ツナに楽しいだけの思い出をくれてやる気はねえんだよ)
 一目で骸を気に入ったらしい家光は、「訳あり」の骸を引き渡す事に躊躇するシャマルに言い放った。
 (あいつならきっと大丈夫だ…あいつが骸の事も幸せにしてやるよ)
 幼いながらも強い意志を込めたツナの瞳に、シャマルは何の根拠もなかったかに思えた家光の予言が的中した事を確認した。

「なあ、坊主…お前、骸が怪我をするのが嫌なんだな?」
 大きく頷くツナに、
「骸が怪我をすると、お前も痛いか?」
 重ねて問い掛けると、更に大きく頷いた。
「それ、骸に言ってやってくれ…それと、骸もお前と一緒だ」
 シャマルの言葉に、え?と問い返そうとすると、
「何が一緒なんですか?」
 いつの間にか音も無く二人の傍らに立っていた骸は、顔を上げたツナを見て微笑んだが、
「何でもねえよ…なあ、坊主」
 はぐらかすように口端を歪めたシャマルには久し振りの挨拶も何もなく無言の一瞥をくれただけだけで、手にしたトレイをテーブルに置いた。その傷ひとつない白い手が丁寧にお茶を淹れるのを、ツナはじっと見つめていた。



「シャマルと何を話していたんですか?」
 ベッドに入ったツナに布団をかけ直しながら骸が問い掛けると、
「うん…」
 店を出た時からずっと何かを考えているらしいツナの返事は曖昧で、理由を追求する事を諦めた骸は枕元に腰掛けてツナの髪をゆっくりと梳いた。
「今日は疲れたでしょう?ゆっくり休んで下さい」
 おやすみなさい、といつものようにサイドテーブルの灯りを落とそうとしたその手を制して、ツナが体を起こした。
「マスター?どうかしましたか?」
 ほのかな灯りが俯くツナの顔に影を作って、表情が読み取れない。そっと顔を近づけると、ツナが骸の腕を握り締めた手に力を込めて、反対側の指で消えてしまった傷跡を探すように手の甲を撫でた。
「…オレ、嫌だからな」
 ぽつりと落とされた言葉の意味が判らず戸惑う骸の手を取り、両手で包んで胸にぎゅっと押し当てた。
「骸が怪我すると、オレも痛い。だから、怪我なんかしないで…大丈夫だって笑わないで」
 俯いたままのツナは、その時骸が顔を歪めたのに気づかなかった。骸は空いている手でツナの髪を撫で、温かい頬へと滑らせた。
「マスター、僕には痛みを感じる事が出来ません。どんなに怪我をしても、それをつらいと感じた事など一度もありません」
 やっと目を合わせたツナの瞳は潤み、瞬きひとつで零れてしまいそうだった。
「だけど、貴方がそんな顔をしていると、僕はつらくなります…貴方が『痛い』と感じる事が、僕の痛みになります」
 ゆっくりと囁く骸の声に、堪えきれない涙が頬を伝い骸の指先を濡らした。
「むくろも…オレと一緒なの?」
 震える声で問い掛けるツナに、骸は微笑んで小さく頷いた。
「オレが痛いと、むくろも痛いの?」
「ええ…貴方が僕に痛みを教えてくれました」
 だから責任取って下さいね、とおどけたように笑って首を傾げる骸にツナも笑って大きく頷くと、両手を伸ばして骸の冷たい頬を包み込んだ。
「いたいのいたいの、とんでけ」
 ツナの手に引き寄せられるまま体を傾けると、額に呼気と柔らかい感触が触れた。目を見張る骸に、先刻までの涙を少しも感じさせない笑顔でツナがこそりと囁いた。
「かーさんがよくしてくれたんだ。痛くなくなるおまじない」
 とーさんには内緒。骸にだけは教えてあげるからね、と耳元に零された無防備な秘密に、
「いたいのいたいの、とんでけ」
 骸は微笑んで、涙の残る頬に口付た。






血も涙もない骸さんは、ツナに色んな事を教えてもらえばいいのな。/わんこ






MENU