輝く暁の明星のいと美わしきかな (バッハの教会カンタータ(27)BWV1) ならしでバッハのインベンションを弾き始める。ゆっくりと左右で違う曲を奏でる。リズムが決まっていないので自由が利く練習曲。小さい頃から必ず最初に演った曲。慣れてきたら、左右同じメロディを弾いて、左右お互いに同じメロディをおいかけるように、と指、腕、足、体をピアノ演奏のために構築しなおしていく。そのままモーツァルトのピアノソナタ第12番ヘ長調に続ける。思っていたより動くようだ。山本も聞き覚えのある曲らしく、ぴったり曲に気持ちが寄り添っている気配がした。そして、ショパンのノクターン。徐々に動き出した体や気持ちが全てピアノに向かう。時間が逆流するように、記憶された楽譜を次々とめくっていった。練習していた当時の風景も思い出す。午前中のレッスン、風ではらむ白いカーテン、学校から戻ってきてからのレッスン、チョコと紅茶の匂い、寝る前のレッスン、パジャマで好きなように好きなだけ弾いた。即興で作った曲に母が笑う。自宅で行われたリサイタル。家族の笑顔。次々と攻略していった楽譜たち。今でも頭の中に全部存在していた!めくって、めくって、次の楽譜を開いて、まためくり続けて…。自分の中の壮大なるピアノに関係する事柄を久しぶりに全開した。 「あ」 目を閉じて没頭していた獄寺は山本の声に我に返った。山本は泣きそうな表情で、獄寺に見られたのが恥ずかしいらしく、片手で顔を隠して何でもない、というように片手を振る。 「続けて」 「山本?」 「後で言うから」 とりあえず、途切れたところから再開する。横目で山本を見ると顔を隠したまま獄寺の演奏を聴いていた。一度気持ちがピアノから外れてしまうと元の気持ちに戻るのは難しい。それよりも山本のことが気になって仕方がなかった。弾き終わって、両膝の上に両手を戻すと、山本が盛大に拍手を送ってきた。 「すごい!獄寺ありがとう、ほんっとうにありがとう!」 わずかに肩で息をしている。演奏する筋肉が殆ど落ちていた。獄寺がソファに移動する間に山本は冷えたスパークリングワインを持ってきて、シャンパングラスに注いだ。 「本当にありがとう」 獄寺以上に興奮しているらしく山本の頬は紅潮していた。 「獄寺ほんっとおまえすごいなぁ」 マグカップで飲んでいるんですか?と聞きたくなるぐらいの呑みっぷりに獄寺はあっけにとられながら、タバコに火をつける。獄寺も十数年ぶりに思い存分弾いたおかげで、体中がぽかぽかと興奮していた。 「で?」 「あ、わりぃ。なんだっけ?」 「なんだっけ?じゃねーよなぁ」 へらへら笑う山本の両頬を両手で挟んで向きなおさせる。 「ええと」 山本の視線が獄寺からずれる。獄寺が振り返ると窓の向こうにひろがる景色は太陽が出る直前の明るくなり始めたそれ、だった。 まだ東の空がほんの少しだけ明るいだけの夜明けの空。 「獄寺のピアノを聴けたら、次は夜明けに聴いてみたいってのが次の夢だったんだ。さっき、ふとそれを思い出して、それで」 「それで?」 いつも堂々としすぎてて、もてあまし気味だった山本が言葉を捜す姿が面白くて、獄寺はおでこをくっつけて山本の目を覗き込む。山本は少し泣きそうだったところを見られたのが恥ずかしいのか目をそらす。 「山本…武?それで、夢が叶ったのを見られて恥ずかしかったのかよ?」 山本の顔が急に赤くなる。 「これからこんなことするときは相談しやがれよ」 「ああっもう!」 山本は自分の両頬をつかむ獄寺の両手をつかんでそのままソファに押し倒す。タバコをくわえたままの獄寺は慌てて顔を背ける。山本の体温はいつもより高かった。あれ?と獄寺は思う。こいつもしかして? 山本をおしのけて、テーブルの向こう側を見る。FLORIOのブランデーが2本空いていた。 「てめ、一人で空けやがったのかよ!」 「全然大丈夫。なんかうれしくってさー」 全然大丈夫じゃねぇよ。貴重な酒なのに、なんで一人で呑むかな?次にみつけたら絶対こいつには呑ませねー! ソファから半ばぶらぶらと頭が落ちながら山本は笑う。ガウン代わりのローブから見える肌はうっすらと赤くてなまめかしくって、立派にアルコールが血のように巡っていた。 「おら、ちゃんと寝るぞ」 獄寺は山本の手を首に回して立たせた。 ベッドにもつれこむように倒れる。 「おまえの夢、オレが叶えられるものならなんでも叶えるから。言えよ」 「言うか莫迦」 今が一番楽しくて夢なんかみる余裕がないなんて。 今のこいつに言ったら目も当てられないほど調子こきやがるから、絶対言うもんか。 獄寺がそばにいるからか、山本はすっかり熟睡に入っていた。その下から着替えるために抜け出す。 外はすっかり夜が明け始めていた。遮光カーテンを閉めようと窓辺に近づく。強引だったけど、またピアノが弾けて嬉しいのは事実で、頬が緩むのを止められない。大げさかもしれないけど、忘れていた人生の一部が戻ってきたような気すらした。あの城の生活を思い出してしまうので遠ざけていたけれど、やはり必要なものだったらしい。頬に当たる太陽の光が暖かくて、流れる涙も温まってきた、ようだった。 「かんじんなことは目に見えないんだよ」by Le Petit Prince /だい。 |