花雨 薄暗く垂れ込めた雲から、絶え間なく柔らかい雨が落ちてきている。粒が細かいせいか傘に雨が当たる音はしなかったが、辺りには低い雨音が小さく響いていた。 獄寺は、手にした黒い傘の先で震える水滴を眺め、軽く傘を振るわせてそれを落とした。激しい雨ではないせいか、またはきちんと整備された歩道だからか、アスファルトにはさほど水溜まりはない。これが自分の生まれた国であったら、磨り減った古い石畳に沢山の水溜まりが出来ていることだろう。 ――もっとも、こんなに降り続くこと自体が考えられねーな。 そんなことを思って、獄寺は口元だけで笑った。水分を含んですっかり柔らかくなった髪をかきあげ、目を細める。 満開を過ぎた桜の花びらを散らすように雨は降り続いている。獄寺は日本に来た当初は雨がどうしても好きになれなかった。イタリアは基本的に乾燥しているので、身体が高い湿度にいつまでも慣れることが出来なかったからだ。雨が止めば楽になるかと思いきや、梅雨の時期を過ぎると湿度はそのままで夏に突入してしまう。暑いのは得意だった筈が、一年目は正直バテバテだった。高校までを過ごしイタリアに戻ったのだが、数年ぶりに遭遇した雨は以前の印象とだいぶ違うものだった。 恵みの雨を受け周りの黄緑色の若葉は一段と艶やかに光り、何時もよりトーンの落ちた色合いの街も美しく見えてくるから不思議だ。 ――だって、獄寺は雨が好きだろ? 途端に耳に馴染んだ男の声が思い出される。 「図々しい」 舌打ちとともに独り言を吐くと、傘を握り直した。 懐かしい並盛の街を抜け、街外れまで来ると辺りに人影はなくなる。時間の割りには薄暗い道を、獄寺は迷うことなく進んでいく。やがて遠くに立派な和風の門構えが見えてきた。普段は固く閉じられているであろう木製の門扉は、獄寺を歓迎するように開かれている。白く長い塀に囲まれた敷地には、艶々と光を弾く木々が見えた。獄寺は一度足を止め、表札一つない門を見上げた。年月を経た屋根瓦は銀色に鈍く光り、太い梁も黒く立派なものだ。並盛で過ごしていた間は、こんな建物があることすら知らなかった。 開け放たれた門から見える木造の建物は、かつて山本が修行をした道場だった。門から入り口まで続く石畳を歩き、道場の入り口に立つ。獄寺はゆっくりと傘を畳むと、そのまま道場に足を踏み入れる事なく中を眺めた。 中に照明はなく、外の弱い光が白い障子が柔らかく照らしている。手前と奥に袴姿で竹刀を手にして、相対する二人の人影が、微動だにせず佇んでいた。手前の広い背中は山本のもの、その背中越しに目を閉じた山本の父親の顔が見えた。どのくらいの時間、二人はこうやって向かい合っているのだろう。獄寺は、自分では到底経験することの出来ない時間を過ごす二人を見て、ほんの少しだけ唇の端を下げた。 「久しぶりに日本に立ち寄れそうだから、親父に会いに行ってくるよ」 アジア出張を前に、山本は笑顔でそう切り出した。向かい合って食事をしていた獄寺は、ワイングラスに口をつけたまま目だけで返事を返す。 手元のスペアリブの煮込みに行儀悪くフォークを突き立てたまま、山本が身を乗り出す。 「でさ、獄寺来週休みあるじゃん」 「やだ」 間髪入れずに返事をすると、山本が困ったように眉を下げる。 「まだ何も言ってねーよ」 「どうせ一緒に行こうとか言うんだろ。俺の休暇はそんなに長くないっての」 獄寺の空いたグラスに赤ワインを注ぎ、山本は自分のグラスに残りを空けた。 「あ、ツナには言っておいたから、獄寺の休みは5日間になっているはずだぜ」 「んだと!?」 獄寺は慌ててリビングのテーブルに置いていたノートPCをチェックすると、自分のスケジュールにしっかり5日間の休暇が入り込んでいる。 綱吉の決済が下りている事を確認して、ダイニングで素知らぬ顔でワイングラスを傾けている男を睨み付けた。 「山本っ!」 「ツナからの伝言。山本のお父さんによろしく伝えて来てねってさ」 綱吉の言葉は、獄寺にとって絶対だ。この男は、いつの間にこんなに狡猾になったのだろう。 獄寺が溜め息をつくと、山本は満面の笑みを浮かべた。 「…山本のくせに」 「俺の仕事はとっとと片付けて行くからな」 山本の今回の仕事は、確か香港マフィア相手の交渉だった筈――そんなに簡単な訳がない。 「終わらなかったらどうすんだよ」 「大丈夫だって。獄寺は仕事大丈夫だよな」 山本の一言に、獄寺の眉間に皺が刻まれる。 「ふざけるな。たりめーだろうが」 「だよなー」 能天気な顔をして返事をする山本を見ながら、獄寺は自分の仕事をどう片付けるかの段取りを考えていた。 ――結局、コイツはあっさりと仕事を片付けやがったんだよな。 獄寺が出国直前に綱吉に確認したところによると、過去最高の手際の良さで交渉を進め、予定より早く終わらせたらしい。 「こんなことなら、アジア方面はいつも山本に頼もうかなぁ」と笑顔を浮かべる綱吉に、獄寺はひきつった笑いを返すのが精一杯だった。 一方獄寺はというと、当初の予定なら何ら問題なく自分の仕事を片付けられる筈だった――予定通りならば。 ――室長、ぜってーわざとだ。 冷静沈着でクールな獄寺の上司は、その外見に似合わず獄寺をからかうのが非常に楽しいらしい。獄寺のデスクに仕事を山積みにしていく彼の目は、華奢な眼鏡の向こうで確実に笑っていた。 自分で仕事を押し付けたくせに「手伝ってやろうか?」などと言う室長に対して、借りを作りたくなかった獄寺は、最後はほぼ完徹で仕事を片付け、機上の人となったのだった。 獄寺が道場に着いてから、ゆうに30分が経過した。 獄寺が見る限りでは二人の姿に何ら変わりはない。道場に射し込む光はますます弱まり、対峙している二人の表情は読みにくい。 風が出てきたのか、道場の障子がガタリと鳴った。 不意に山本の竹刀の先が微かに揺らいだ。獄寺の目には山本の纏う空気が、僅かに膨らんだように感じた。 ――行くか? 対峙している山本の父には何の変化も見られない。 獄寺の緊張がピークに達した。 ――シュッ 鋭く息を吐くと同時に、山本は竹刀の切っ先を下から振り上げた。 ――ダンッ 床を踏み鳴らす大きな音と共に、一瞬にして二人の立ち位置が入れ替わっていた。 ――足音は、分かった、な。 一人ならともかく、二人の動きまではとてもじゃないが目がついていかなかった。 下から竹刀をはね上げたであろう山本に対して、山本の父は全く先程と構えを変えたように見えない。ただ、立っている位置が違うだけだ。山本から感じた一瞬の殺気が、山本の父からは全く感じなかったことに気づき、背中を冷たいものが落ちる。 その静寂と緊張に、獄寺は思わず拳を握りしめた。 「あっちゃー、今日はいけると思ったのになぁ」 それまでの空気をぶち破るように、山本が明るい声を上げる。竹刀を下ろし、頭を掻きながら振り返ると、獄寺にニヤリと笑ってみせた。 「いやあ、また腕を上げたな、武」 山本と良く似た笑顔を浮かべ、山本の父は目を細めた。そのまま獄寺の方を見ると、ニカッと白い歯を見せる。 「よう、獄寺君久しぶりだな」 まだ緊張感の余韻を引き摺って硬直していた獄寺は、漸く大きく息を吐き出した。 「お久しぶりです。10代目が宜しくとおっしゃっていました」 会釈を返す獄寺を、山本の父はニコニコと眺めている。何も言葉が返ってこないことで、獄寺は何か言葉が足りなかっただろうかと、不安そうに山本の父を見つめ返す。 山本の父は、不意に目を細めた。 「やー、獄寺君はすっかり大人っぽくなったねぇ。武なんかちっともかわらねぇのになぁ」 「ひでーな」 山本は笑いながら竹刀を壁にかけ、山本の父も楽しそうに続ける。 「そうじゃねぇか。獄寺は昔はやんちゃな雰囲気があったのになぁ。今では、アレだ。クールビューティーってやつだな」 「…はぁ」 ――それって、男に言う言葉か? しかも、昔の自分の事を知る大人という存在に慣れない獄寺は、酷く落ち着かない気分になった。山本とその隣に立っている山本の父の顔を交互に眺め、困ったように瞬きをする。 「そうかなぁ。美人になったのはその通りだけど、獄寺は昔からちっとも変わらねぇと思うぜ」 「美人て何だよ!?しかもオレの中身がちっとも成長してねぇみたいじゃねーか!」 普段の調子で言う山本に、山本の父の前という事を忘れて獄寺はつい声を荒らげてしまう。そんな獄寺を笑ってながし、山本は不意に表情を変えた。 「そうじゃねーよ」 穏やかに言葉を続けた山本の目にどこか温かい感情を見つけて、獄寺はますますいたたまれない気持ちになる。 「…なるほどな」 二人のやり取りを黙って見ていた山本の父は何かを納得したように頷くと、手にしていた竹刀を壁にかけた。 「さて、獄寺君。この後ウチに来るだろ?」 「あ、いえとんでもない」 それまでの話題をガラリと変え、山本の父は獄寺に話しかけた。一瞬反応が遅れたが、この問いかけを予想していた獄寺は、すぐに笑顔で首を横に振った。山本親子の仲の良さは昔から知っているので、獄寺は初めから誘われても断るつもりだった。久しぶりに日本に帰って来た山本を父親と親子水入らずにしてやりたかった。それに自分が行くと二人が気を使ってくれることも、それでも自分が寂しさを感じてしまうこともわかっていたから。 獄寺は前もって用意してきた言い訳を口にした。 「日本支部に行かなければならなくて…」 「獄寺は有給休暇だから、行くとしたらむしろオレの方だろ?」 考えてきた言い訳を笑顔で話そうとすると、山本の能天気な声に遮られる。 「ばっ…お前はいいんだよ!」 慌てて山本を睨み付ける獄寺に、山本はさらにのんびりと続けた。 「それに、オレが獄寺の到着前に行ってきたぜ」 「違っ…じゅっ、10代目の…」 「あっちに連絡したとき、ツナも特になにもないて言ってたし」 「なっ…」 最後の手段だと思っていた綱吉の名前ですら先手を打たれてしまい、獄寺は眉を潜めて黙りこんでしまうしかなかった。 「アハハハハ!」 山本の父は豪快に笑うと道場の出口に向かって歩いてきた。入り口に立ち尽くす獄寺の肩に手を置いた。 「せっかく鮪のイイヤツを仕入れたんだ。食べていってくれよ、な」 返す言葉に詰まった獄寺の肩を叩くと、山本の父は傘を手に玄関に降り立った。 「武!俺は先に店に帰っているから、戸締まりたのんだぜ?」 「おう!」 山本が軽く手を上げると、山本の父はニッコリと笑って手にした傘を開き、雨の中を歩いていった。 山本は道場の端の方から格子窓を閉め、続けて雨戸を閉めていく。獄寺はその繰り返される動作を、苦虫を噛み潰した表情で眺めていた。薄暗かった道場の中は、徐々に闇へと沈んで行く。 「そんな顔をするなよ。親父、楽しみにしてたんだぜ」 「お前なぁ…せっかく、このオレが…」 「わ、獄寺、気ぃ使ってくれたの?」 「るせ!誰がおめーなんかに気を使うかよ!」 最後の雨戸を閉めた山本は、入り口に立っている獄寺の目の前に顔を出した。 「もちろん、親父に気を使ってくれたんだろ?ありがとな」 段差があるせいで、普段より低いところにある獄寺の顔に手を添えて、そのまま髪の毛に指を滑らせる。少し上を向かせると、頬を少し赤くして目線を反らせた。 「…いいのかよ」 上を向かせて顕になった白い額に、小さい子供にするように軽く口づけ、両手は獄寺が弱い耳を擽る。 「昨日、二人で話せたから」 「…ちょっ…やまもっ…」 今度こそ獄寺は顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに身を捩った。皺の寄った眉間、睨み付ける目元、筋の通った鼻梁、柔らかい頬に順番にキスを落としていくと、獄寺はその度に小さく身体を揺らす。 「…やっ」 「今日は、獄寺と親父と3人で過ごしたい。親父、本当に楽しみにしていたんだぜ」 「そ…んな…」 「もちろん、明日の誕生日は獄寺と過ごしたいけどな」 山本はそう鼻先で囁くと、上から獄寺の翠色の瞳を覗き込んだ。 「な、お願い」 「…バカ」 視線をさ迷わせながら溜め息をつくと、獄寺はゆっくりとその瞳を隠した。 獄寺が瞼を閉じたことを了承の意ととらえると、山本はその花弁のような唇を奪った。 剣士二人の、張り詰めた静かな戦いみたいなのを書きたかったのですが玉砕。 獄寺さんの描写はわりとねっちょりか書けたので満足です(爆。/つねみ |