つまみ食いだか、本気なんだか



ボンゴレファミリー十代目の就任式の朝、邸内は見えない緊張で包まれていた。それに構わずいつもの如く夜明け前に了平はトレーニング・ウェアに着替えて足音をたてずに外に出た。ボンゴレ本宅は広大な土地を有していて、ここに来て一週間もたつのに同じところを走ったことがない。一時間後、汗だくで走って本宅に戻ると、久しぶりの再会となるコロネロが芝生の上でストレッチをしていた。
「師匠!ブオンジョルノ!」
髪の先まで汗でぐっしょりと濡れているコロネロは、初めて聞く了平のイタリア語に破顔した。
「来い、了平!」
了平はスピードを殺さないままコロネロの懐に走りこみ、鋭いアッパーを繰り出した。サイドステップを踏んで、了平のパンチを避けながら、コロネロも隙を見て、肌が切れる音がするスピードのパンチを返す。ほぼ互角の打ち合いができるのがお互いに嬉しくてたまらない。コロネロは、足元を滑らせた了平の片手を掴んで転倒を防いだ。

2人がじゃれるようにスパーリングをしているのが見えるキッチンでは、今日の就任式の食事周りの用意のため、ここ数日オーブンの火が消えることはなかった。ボンゴレの新ボス就任式は数十年ぶりということで、系列や友好関係にある他国のマフィアが一斉に集合するので、本宅全体が見えない高熱をはらんでいた。キッチンどころか本宅の事務を担当している執事たちもそれは同様のことで、毎日用意のチェックに余念がなかった。
通常、屋敷の住人の食事は本宅奥のメイン・キッチンで手がけているが、そこも今日は朝食を作る以外の時間は準備のため臨戦状態になる。
ツナたちが全く知ることのない、もうひとつの戦場だった。

数時間後、就任式にふさわしい快晴の朝。
式が行われる中庭では、百を越える丸テーブルに白いクロスがなびき、銀色の食器や透明のグラスたちが太陽の光を反射する。薔薇の花束が中庭を飾り立て、キリリと冷えたワインからヴィンテージのコニャックまで所定の場所でスタンバイを終えわずかな静寂をたたえていた。
予定通りのスケジュールに、メイドたちはそれぞれのキッチンに戻りつかのまの休憩を取り始めた。さざめくようなおしゃべりのメインはやはり新しいファミリーの誰が好みか、という話だ。
近寄りがたいクールさで、リボーンがダントツ人気だが、雲雀や獄寺も負けてはいなかった。十代の少女たちは国籍に関係なく少し年上(に見える)異性に弱いものだ。
「Ciao!」
途端にキッチンのさざめきが止まる。おしゃべりの主役の一人が急に登場したのだ。サブキッチンのひとつにすぎないここに、家人が来ることはないからこそ、メイドたちは油断しておしゃべりに花を咲かせていたのだ。
現れたのは、いつもの迷彩服とは全く違う正装姿のコロネロだった。リムレスの眼鏡をかけたソフィスティケイトされた姿に、粗野な雰囲気しか知らないメイドたちの間で小さく叫び声があがる。はしたない声を聞きつけた責任者のシェフがキッチンの奥から出てきた。
「Le chiedo scusa」(忙しいとこ悪いんだけど)
コロネロは満面の笑みで「腹減って死にそうなので、何かちょーだい」というおねだりを続けた。シェフが最上級の謝罪で「アルコバレーノをもてなす準備はできない」と、断りかけたところで、腹の虫が鳴く音が響いた。それも廊下から。「オレだけじゃなくて、もう一人いるんだ」と言われたら仕方がない。お茶の食器を片付けたメイドたちに指示して、窓際に二人の席を用意させ、コロネロたちを招いた。
「了平、準備できたぞ」
「助かったー。腹減って腹減って死にそうっすよ」
続いて現れたのはまさに今回の就任式の主役の一人、晴のリングの守護者・笹川了平だった。中学卒業後、プロボクサーの道に進み、既にいくつかベルトを獲得していた。幼少時代の左目の古傷以外にも傷が絶えることはなく、今でも顔に絆創膏を張っている。真っ白い短髪に鋭い眼光で、辺りを見回す了平は中学時代の無鉄砲さが影を潜め、落ち着きと鋭さが備わっていた。
コロネロと同じようにジャケットをメイドに渡し、椅子に座る。
「酒、大丈夫だよな?」
「大丈夫ッス」
二人の前に細いワイングラスが置かれ、恭しく先ほどのシェフが白ワインを開け、コロネロにテイスティングを勧める。
「Prend questo. ma donna bella per favore」(失礼ながら、きれいな女性に変わっていただけますか?)
重々しく話すコロネロにシェフはにっこりと笑い、ワインの給仕をメイドに任せた。二人がグラスに口をつけたタイミングで、つかの間、ここが彼ら専用のキッチンになった。






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